去る1月23日、元連合赤軍兵士、植垣康博さんが亡くなられました。
植垣さんは連合赤軍についての記憶と記録を残すために積極的な活動を続けられ、晩年体調を崩されるまでは当会の会合にも静岡から頻繁に参加されていました。

撮影:馬込伸吾
約束
藤井 大地
植垣康博さんが誤嚥性肺炎を起こし、危篤状態にあるという連絡を友人から受けたのは2025年1月20日だった。
2022年春先、体調を崩し、経営していたスナックバロンを閉め、介護施設で療養生活を送っていた植垣さんには何度も面会に行った。当初は何か疾患の後遺症なのかろれつが回らず、意欲も減退しているようで胸が痛んだが、リハビリが功を奏してか徐々に元気を取り戻していった。
僕が施設に面会に行くと、いつもハリのある声で迎えてくれた。
「おう、〇〇(僕の本名)くんか。近くの喫茶店で話そうや」
デイサービスに行く以外では、施設の自室でラジオを聴くのが日常だったようだ。それで退屈していたのだろう。面会者が来ると、近所のカフェへ車椅子に乗って外出するのが常だった。嗜好品や少量の軽食をおやつとして摂取することは施設からも許しが出ていたので、カフェでコーヒーや紅茶を飲み、洋菓子を食べるのが大きな楽しみになっていたようだ。そこで一緒にお茶しながら、お馴染みの植垣節を聴けるまでには元気が回復していた。カフェの店員さんは車椅子が通りやすいように観葉植物や椅子をどけてくれるなど優しかったし、僕も車椅子を押して植垣さんと短い散歩に出かける午後が楽しくて、心温まるひとときだった。
「いつか車椅子の乗る車を借りて、ドライブに行けたらいいですね」
そんなことも植垣さんに話していた。
この時、植垣さんには書きかけの原稿があり、スナック経営や取材攻勢の多忙と体調悪化により筆が止まっていた原稿の続きをいつも気にしていた。
視力が落ちていた植垣さんは、口述筆記に意欲を示していたから、ボイスレコーダーや書記を務めてくれるライターさんの手配を検討していたし、情報源としてラジオだけでなく動画サイトも楽しめるよう、大画面のタブレット差し入れ等も考えられていた。書きかけの原稿がどこかにあるから探しておいてくれないかと頼まれたこともあった。
2024年春先、しかし植垣さんは転倒して大腿骨を骨折。入院、手術を経てほぼ寝たきりに近い状態になり、外出はもちろん原稿どころでもなくなってしまった。退院して施設に戻った植垣さんを見舞ったとき、「もう生きていてもしょうがない」と植垣さんらしくない弱音を吐露したのが忘れられない。それでも、施設の職員にデイサービスの入浴に行こうと促されると「風呂なんか入りたくないけど、入らないと(体が臭くなり)みんなが困るからね」と応じていて、どんなに弱っても周囲の人を気遣い、いま自分に課せられた責務を果たそうとする、あの強くて優しい植垣さんだった。それは、誰も避けることのできない生老病死の四苦とたたかう戦士の姿だった。どんな最終幕を迎えたとしても、僕は植垣さんを敗北したとは思わないだろう。そう確信した・・・。
2025年1月22日。
夕闇せまる部屋に横たわる植垣さんは、酸素マスクをつけ、苦しそうに呼吸していた。危篤の報を受け、いてもたってもいられずに僕が面会に来たことを認識しているのか、わからなかった。色々話しかけたけれど、植垣さんはマスクをとろうとして細くなった手を動かすだけだった。マスクが顔の皮膚を刺激して、痛いのか、かゆいのか。それとも、以前言っていた「生きていてもしょうがない」という気持ちから、延命を拒否しようとしているのか。
「植垣さん。マスクはつけていましょう。その方が、呼吸が楽ですから」
僕はそう呼びかけるのが精いっぱいだった。
おそらく、僕のことはわからないだろう。帰ろう。そう思って部屋を出た。
部屋の外は、あっけらかんとしたほどの日常だった。施設の人が夕餉の支度に立ち回り、隣室ではすでにテレビを観ながらの食事が始まっていた。窓の外は濃いオレンジに染まり、群青色の若い夜空が徐々に落ちてきていた。世界は、いつものように流れている。元連合赤軍兵士・植垣康博として生きた人の肉体生命が尽きようとするこの瞬間を吞み込んで。
僕は、踵を返した。
「植垣さん!」
誰も見ていない。聞いている人もいない。だから、今まで言えなかった本当のことを、植垣さんに伝えるのだ。
僕は植垣さんの手を握り、本心を話した。大きな夢を描き、試行錯誤し、失敗してもまた立ち上がり、いつも明るかったのに目の奥には取り返しのつかないあの過ちに対する苦悩を湛えていた植垣さん。僕は、ちゃんと見ていました。あなたのように生きようと憧れ、あなたが犯してしまった過ちの轍は踏むまいとあなたの話に耳を傾け、そうしてあなたの背中を追いかけて生きてきました。
「植垣さんが抱いて、果たせなかった夢を、必ず僕が形にして見せます」
そう言葉にして約束した僕の手を、植垣さんは弱弱しいけれど、確かにしっかりと握り返してくれた。いつの間にか、植垣さんは薄く目を開けて、言葉にならないけれど声を出して、僕に応えてくれた。
「植垣さん、僕の同志になってください」
言葉にならない声、握ってくれた手。目の奥は、決して衰弱した病人のそれじゃなく、あの優しくも力強い生命の炎。
「おっ、そうか! じゃ同志になるか」
そう答えてくれたように感じた。
僕は、植垣さん、いや、植垣同志と約束を交わした。
夜の道路を飛ばして帰路につく僕は、妙に晴れ晴れとした心持だった。三田誠広の「いちご同盟」にこんなシーンがあったなと思う。
僕は、約束をした。この約束を責務として果たさなければならない。命ある限り。「同志」と共に。
いつか、同志と再会するそのとき、胸を張って「やり遂げましたよ、あなたのように!」と言えるように。
植垣君を追悼して
雪野建作
71年8月に私が逮捕されるまでに、植垣君に会ったことはなかったように思う。
残す会では、ほとんど毎回会った。帰る時には、「植垣税」と称して帰路の交通費を徴収していた。
連合赤軍の証言者として、彼は十二分にその役割を果たした。
バロンは、残す会の公開の連絡先として機能していた。
大槻さんの兄妹など、多くの人がバロンに来た。
もともと酒は好きだったのだろうが、バロンで客と飲んた挙句に糖尿病になったのは、だから職業病のようなものだったと思っている。
最後に残す会に来た時は、「足元が良く見えない」と言っていた。
自治体の成人病検診を受けていれば早く分かっていただろうが、もとよりそのようなタマではない。
体の自由が利かなくなってからは、静岡県の養護施設の世話になっていた。
植垣君は、私にとって、残す会の無二の盟友だった。