去る1月23日、元連合赤軍兵士、植垣康博さんが亡くなられました。
植垣さんは連合赤軍についての記憶と記録を残すために積極的な活動を続けられ、晩年体調を崩されるまでは当会の会合にも静岡から頻繁に参加されていました。

撮影:馬込伸吾
植垣君を追悼して
71年8月に私が逮捕されるまでに、植垣君に会ったことはなかったように思う。
残す会では、ほとんど毎回会った。帰る時には、「植垣税」と称して帰路の交通費を徴収していた。
連合赤軍の証言者として、彼は十二分にその役割を果たした。
バロンは、残す会の公開の連絡先として機能していた。
大槻さんの兄妹など、多くの人がバロンに来た。
もともと酒は好きだったのだろうが、バロンで客と飲んた挙句に糖尿病になったのは、だから職業病のようなものだったと思っている。
最後に残す会に来た時は、「足元が良く見えない」と言っていた。
自治体の成人病検診を受けていれば早く分かっていただろうが、もとよりそのようなタマではない。
体の自由が利かなくなってからは、静岡県の養護施設の世話になっていた。
植垣君は、私にとって、残す会の無二の盟友だった。
雪野建作